マルコ1章
1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
神の子であるイエス・キリストの福音について記されています。その初めです。
1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。
それは、預言の引用から始められました。イエス・キリストの前に使いが遣わされることです。それは、イエス様の道を備えるためです。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
その預言は、人々に呼びかけています。主の道を用意するのです。その通られる道を真っ直ぐにするのです。通られる道とは、主が人々を神に立ち返らせ、永遠の滅びから救い、御国で報いを相続する救いを与えることです。その目的の達成のために来られるのです。その時、人々の心を神に向けさせ、神から遣わされた方を受け入れることができるように備えることが道を真っ直ぐにすることです。
その預言の通りにバプテスマのヨハネが現れたのです。彼は、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。彼は、罪の赦しを与えることはできません。彼は、イエス様を信じるように伝えたのです。罪に赦しは、イエス様によります。その方を信じることで罪の赦しに至るのです。
使徒
19:4 そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」
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ヨハネが語ったことは、自分の後に来られるイエス様を信じることです。そして、バプテスマを授けましたが、それが悔い改めのバプテスマと呼ばれています。神から離れていた人たちが、神から遣わされた方を信じるように考えを変えることが「悔い改め」と訳されている言葉の意味です。「悔い改め」の日本語での意味のように「罪を悔いて行いを改める」ように説いたのではありません。
・「赦し」→解放、赦し、赦免をもたらす送り出しを表します。聖書では、この言葉はつねに神に向けられた、罪に焦点を当てた言葉であり、罪の除去、あるいは赦しに続く解放を表します。単に「赦し」だけでなく、解放を意味する言葉です。
・「悔い改め」→考えを変える。
聖書の意味:悔い改めとは,心と思いを変えることによって,神に立ち返ることです。
日本語の意味:犯した過ちや罪を深く反省し、心を入れ替えて、二度と過ちを繰り返さないように行動を改めること。
・罪の赦しに「いたる」→エイス。into。~へ。
1:5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
ユダヤとエルサレムの多くの人々が、バプテスマを受けました。自分の罪を告白しましたが、彼らが神から離れていたことが分かります。なお、罪を告白したこと自体が悔い改めではありません。神から離れていた彼らが、考えを変えたことが分かります。神に立ち返ろうとしていたのです。
1:6 ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
彼の様子について記されていますが、彼は、着る物や食べ物によって自分を満たそうとしていたのではないのです。彼は、この世のものを求めていませんでした。人々に神の国を宣べ伝える者として、この世のものを求めなかったのです。
1:7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
ヨハネが宣べ伝えたことが記されています。初めに、彼の後から来られる方について、その偉大さを証ししました。罪の赦しを受けるためには、この方が神の子、キリストであることを信じなければならないからです。
そして、その方が与えるものについて語りました。それは、聖霊によるバプテスマを授けられることです。バプテスマについて、水と聖霊が対比されています。それで、バプテスマが、水に浸されることであるように、聖霊に浸されることを表しています。それは、聖霊の支配に入ることを表していて、人は、聖霊によって歩むようになるのです。それは、御国を相続することの保証となります。御国を相続することは、御国で資産を受け継ぐことです。ペテロ書には、それは、たましいの救いとも表現されています。たましいが聖霊によって歩むことで、報いを受けるのです。御霊は、神の御心を行うことができることを保証する方であるのです。
ペテロ第一
1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。
1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、
1:7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
1:9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
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1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。
イエス様は、ヨハネの所へ来て、ヨハネからバプテスマを受けました。バプテスマは、ペテロが説明しているように、神への良心の誓いです。
ペテロ第一
3:21 この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。
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バプテスマは、肉体の汚れを取り除くものではありません。肉は、いつでも働くのです。それはむしろ、神の御心に適ったその人の持つ教えとしての良い良心から出る神に対する誓いです。ヨハネのバプテスマと、イエス様を信じた者が受けるバプテスマの意味は違いますが、バプテスマ自体が表すことは同じです。
悔い改めのバプテスマを、罪を悔いて行いをただすためのものと捉えますと、その意味を取り違えてしまいます。イエス様は、罪を犯していないのだからその必要がないという論理になります。悔い改めは、考えを変えるという意味で、悪い人は、その生き方の考えを変えて、神様に立ち返ることを表します。正しい人も、一層神様に自分を全く捧げて歩むことを誓うのです。
神の教えすなわち、その御心を自分の心として歩むことを誓うバプテスマなのです。ですから、正しい人も、正しくない人も、バプテスマを受けることは、人として当然のことであるのです。イエス様は、その正しい行いをされたのです。
1:10 イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。
イエス様は、生まれる前から聖霊に満たされていたのです。それでも、この時、御霊が鳩のようにイエス様に降られました。これは、御霊がさらに強くイエス様に働くことを表しています。それは、イエス様が神様の御心を行うことを公に表明したからです。御霊が鳩のような形をしていたことも、そのことを表しています。鳩は、「素直」と形容されるように、従順に従うことを比喩として表します。イエス様が神の御心に対して従順であるので、御霊は、豊かに働くことができます。
1:11 すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
天から声がしました。父なる神様も証しされたのです。「愛する子」、と。神の愛によって愛する息子という意味です。ご自分の目に適って、心喜ばせる子なのです。父の御心を行うことが父にとって愛おしく、喜ばしいことを証しされたのです。
ですから、このバプテスマを受けることは、大きな意味がありました。父なる神様が喜ばれることは、ご自分の御心に対して従順であることだからです。
・「子」→息子。子。
1:12 それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。
御霊は、すぐにイエス様を荒野に追いやられました。それは、試みのためです。イエス様の誓いがどれだけ本物であるかを試されたのです。四十日間荒野で試みを受けられました。完全勝利であったのです。一切肉にはよらず、神の御言葉に立って、御言葉に従いました。それを評価する者は、誰もいませんでした。野の獣と共におられたのです。また、人の評価を受ける方ではないのです。その出来事は、人に知られずにいました。ただ、霊の世界から見ていた御使いは、イエス様に仕えたのです。神の御子の偉大さを見たからです。肉体にあって試みられましたが、悪魔に一切付け入れらることはなかったのです。このような偉大な方はいなかったのです。
1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。
1:15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
イエス様は、神の福音を宣べ伝えました。それは、時が満ちたということです。神の預言が成就し、神の子キリストが来られたのです。それは、神の国が近いたことを表しています。
それで、考えを変えて福音を信じるように呼びかけられました。
1:16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
イエス様は、福音を伝えると共に、イエス様が地上から去った後にその働きを続ける者たちを召し、訓練する必要がありました。まず、シモンとその兄弟アンデレに声を掛けられました。彼らの出会いの始めは、ヨハネの福音書の一章に記されています。その時、彼らはイエス様を信じています。この時が初めてではありません。このとき、イエス様の働きに召されたのです。彼らが魚をとっていたように、人間をとるようになるためです。人を神に立ち返らせるためです。
ついて来なさいと言われました。必ず人間をとる漁師にしますと言われたのです。
1:18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
彼らは、すぐに従いました。彼らの反応は、早かったのです。ためらいはありませんでした。彼らは、仕事の最中だったのです。それを捨てました。彼らは、イエス様に従うことがはるかに優っていると知ったので、そうしたのです。
私たちが主に従おうとする時、それによって与えられる価値を本当に知っているのでなければ、捨てるべきものを捨てることはできません。
1:19 また少し先に行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。
1:20 イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。
イエス様がヤコブとその兄弟ヨハネをすぐにお呼びになられました。イエス様も父なる神様の御心に対して従順であり、すぐにそれに応えて行動されたことが記されています。
そして、呼ばれた二人も仕事の途中でしたが、イエス様の後について行きました。
1:21 それから、一行はカペナウムに入った。イエスはさっそく、安息日に会堂に入って教えられた。
さらに、イエス様は、父の御心に対して従順であり、早速、安息日に会堂に入って教えられました。
1:22 人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。
人々がイエス様の教えに驚いたのは、権威ある者として語られたからです。それは、律法学者の教えと対比されています。権威は、上から、この場合、神から与えられるものです。神から遣わされた者として語ったのです。神の言葉に相応しく語りました。パウロも神から福音を委ねられた者として語ったことを記しています。
テサロニケ第一
2:3 私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。
2:4 むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。
2:5 あなたがたが知っているとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、貪りの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。
2:6 また私たちは、あなたがたからも、ほかの人たちからも、人からの栄誉は求めませんでした。
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その言葉は、間違いのないものでした。誤りがなく、不純な心から出ていませんでした。だましごとでもありません。律法学者たちは、自分を現し、誇ろうとする動機から語っていました。民衆は気付かなかったかもしれませんが、教えも誤っていました。イエス様は貪りの口実を設けませんでした。その行い、歩みが何一つ肉的なところがなかったからです。これが、権威ある者としての教えです。テサロニケの信者は、パウロの言葉を神の言葉として受け入れることができたのです。
1:23 ちょうどそのとき、汚れた霊につかれた人がその会堂にいて、こう叫んだ。
1:24 「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」
1:25 イエスは彼を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。
1:26 すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合った。「これは何だ。権威ある新しい教えだ。この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。」
そして、イエス様をさらに権威ある方として人々が認める出来事が直ぐに起こりました。「直ぐに」起こったと記したのは、それが偶然の出来事ではなく、神様がそのようにされたことを表しています。神様が、悪霊に憑かれた人に叫ぶことを許されたのです。悪霊は、このように叫ぶことで、イエス様の証しを担おうとした訳ではありません。逆です。いわゆる誉め殺しなのです。イエス様が人からの栄誉を喜ぶことをさせることで、その証しを壊そうとしたのと、悪霊に憑かれた者がイエス様の尊さを語ることで、却ってその証しを台無しにしようとしたのです。
例えば、世俗的な信者がイエス様の尊さを口にしても、イエス様の尊さが現されるというよりも、イエス様の価値をその人の品位にまで落とすものになります。
人々は、悪霊が追い出されたことで、悪霊に対しても権威ある方であることを知ったのです。彼らは、その教えに驚きました。権威ある新しい教えであると。内容の新しさではありません。それは、聖書に記されていたことです。確かな権威に基づく教えであることを知ったのです。
・「ちょうど」→直ぐに。
1:28 こうして、イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった。
イエス様が権威ある方であることが、ガリラヤ周辺の全域の至る所に広まりました。
1:29 一行は会堂を出るとすぐに、シモンとアンデレの家に入った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
1:30 シモンの姑が熱を出して横になっていたので、人々はさっそく、彼女のことをイエスに知らせた。
1:31 イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱がひいた。彼女は人々をもてなした。
シモンとアンデレが家に入ると、姑が熱を出して横になっていました。イエス様が手を取って起こされると熱が引きました。人々をもてなすほどに元気になりました。悪霊を追い出して、その権威を示された方は、病気を癒すことでまた権威を示されました。神から遣わされた方であることを示されたのです。
1:32 夕方になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。
1:33 こうして町中の人が戸口に集まって来た。
昼間は、働いていた人たちは、夕方になって日が沈むと病人や悪霊に憑かれた人を皆イエス様のもとに連れて来ました。町中の人が戸口に集まりました。
1:34 イエスは、様々な病気にかかっている多くの人を癒やされた。また、多くの悪霊を追い出し、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスのことを知っていたからである。
イエス様は、病人を癒やされました。悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出しました。悪霊には、ものをいうことを許しませんでした。イエス様のことを知っていたからです。彼らがイエス様のことを正しく言い表したとしても、悪霊の証言は、イエス様の証しにはなりません。悪霊の仲間かと思われ、却って評判を悪くするだけです。
1:35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。
イエス様は、まだ暗いうちに起きて、祈っておられました。神様の御心を行うことを求めておられたのですから、父の御心を知ることを求め、あるいは、父がイエス様を通して御業をなすことを求めておられました。これは、今日、私たちが父なる神様や、イエス様に求めることと同じです。イエス様は、ご自分の思いのままに事をなしておられたのではありません。全てのことは、イエス様にあって父がしておられることでした。
1:36 すると、シモンとその仲間たちがイエスの後を追って来て、
1:37 彼を見つけ、「皆があなたを捜しています」と言った。
人々は、イエス様を探していました。
1:38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」
イエス様は、そのようなことにはお構いなしでした。イエス様は、別の町や村に行こうと言われました。イエス様を探す人にご自分を示すことが目的ではないのです。必要なことは、福音を知らせることです。そして、求める人たちにとって必要なことは、その福音の言葉を聞いて信じることです。物珍しいものを見たいという興味本位の求めは、何の価値もありません。
1:39 こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって、彼らの会堂で宣べ伝え、悪霊を追い出しておられた。
イエス様は、ガリラヤの全域で、彼らの会堂で宣べ伝えておられました。そして、悪霊を追い出しておられました。悪霊の支配下にあっては、福音を信じることができません。そのような人たちを悪霊から解放されました。また、その権威を示されたのです。それは、語られる御言葉を確かなものとします。
1:40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」
1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
一人のツァラァートの人が癒しを求めました。彼は、聖書に記されているとおり、ツァラァートが汚れていることを認め、きよめを求めました。それとともに、お心一つで清くすることができると言い、イエス様の主権を認めました。これは、信仰による言い表しでもあります。
イエス様は、二つのことを語られました。私の心だ言われました。それは、深いあわれみに基づいています。彼を同情するあわれみの心がありました。そして、ご自分が心としたことを実行する権威があることを示されたのです。これが、イエス様の権威による業であることを示されたのです。
1:42 すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。
1:43 イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせた。
1:44 そのとき彼にこう言われた。「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」
その人は、すぐに癒やされました。イエス様は、彼を厳しく戒め、立ち去らせました。誰にも何も話さないように言われたのです。そして、祭司に見せ、モーセが命じた物をもって、清めの捧げ物をするように言われました。それは、人々への証しのためです。彼の社会復帰のためです。
1:45 ところが、彼は出て行ってふれ回り、この出来事を言い広め始めた。そのため、イエスはもはや表立って町に入ることができず、町の外の寂しいところにおられた。しかし、人々はいたるところからイエスのもとにやって来た。
この人は、イエス様の戒めを聞かず、言い広め始めました。彼は、良いことだからしても良いと考えたでしょう。しかし、イエス様の権威を認め、その言葉に服従すべきなのに、それをしませんでした。彼は、イエス様の権威を言い表したのです。しかし、その権威に従わないという残念な歩みをしたのです。彼が、イエス様の業を人に伝えるよりももっと大切なことがありました。それは、イエス様に服従することです。この方を主とし、従うことです。また、彼は、その後に起こる結果について考慮できませんでした。彼が触れ回ったことで、イエス様がその町に入り働くことを妨げたのです。ですから、人は、まずイエス様の権威を認め、その言葉に服従することが必要なのです。そのような人こそ、イエス様がご自分の御心のままに用いることができます。しかし、イエス様の言うことを聞かな人を用いることはできません。それが、優れた働きのように感じられても、イエス様の働きを妨げていることがあるのです。言い広めることに熱心な人が用いられるわけではないのです。聖書の言葉を正しく受け入れ、従っている人でなければならないのです。